昭和56年8月2日 朝のご理解  入力者松本正宏


 御理解第九十三節 「 氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。」

 この御教えは取次者に対する、お取次にお使い回しを頂いておる御教えだと思います。神の前を空けてはならぬと仰せられていますし、ですけれども、まあ、これは取次者に限らない。お道の信心をさせて頂く者のいうならば心得でもありゃ心がけでもあると思うのです。先だって、というか昨日でしたかね、昨日一昨日でしたかね、あの、大場先生の講演をこっち新館で頂きましたが、終わりましてから先生にお食事をされた後でしたけれども、秋永委員長が一番に私に申しました事は、また大場先生があちらを下がられて一番に聞かれた事は、こちらの親先生の後ろにおられる方はどういう方ですかち聞かれたそうです。いつも、私の後ろに久富繁雄さんが御用して下さる度に、後ろにおられましょう。だからあのお方はどういうお方ですかち聞かれた。やっぱ不思議に思われたのでしょうね。別に、いやあの方は、親先生の影の形のようにして、あの、親先生が体が弱いからいつも側におられる方ですというて説明をしたという事を聞きましてね、その朝でした。あの、親先生、久富繁雄さんが私に言われますのに、親先生、今日はお洋服を着替えなければいけないでしょうか、と言われましたから、いや今日はあんたは普段着でよかばいのと私は申しました。
 これやっぱ、繁雄さんこれから私の側にあのああいう、公式の会合の時なんかおって頂くならば、やっぱ別にその紋付袴を着とく事はいらんからね、やっぱ洋服くらいきがえておかないけんだろうなというて、昨日その話をした事でした。ね。やっぱ私の後ろにおるから目立つわけですね。昔はね、もう椛目時代、それこそ冷房もなければ暖房もないという時分でしたけれども、夏でも必ず御信者さん方は背広を着てネクタイきちっとはめてからでしたよ。もうとにかく、合楽のご神前は別にそうしなければならんというたわけでもなかったですけれども、行儀が良かったですね。いうならば、上下をつけての信心姿勢であった。今は大分乱れて参りました。簡単、開襟シャツ一枚でもお参りをなさる方達がおられまして、まあ、色々な人たちがあってもいいですけれども、これは信心させて頂く者の構えとしてね、今日は教師に対するそれではなくてですね、最後にあります、ね、上下をつけたような信心と仰せられます。いうならば、キチッとした、いうならば構え姿勢、それにいうならば服装一つの上にでも心得掛けなければならない事が分かりますよね。不思議です。ね。開襟シャツ一枚の時にですね、気楽な格好をしたらやっぱ心も気楽ですね。これは私がまだ、あの、タバコを、止めきれずに吸っていた時分に思うていた事ですけれども、親教会に参拝させて頂くでもこう開襟シャツでお参りをする。自動車を待つ時間でもタバコをすぱすぱ吹かしてもね、一つも可笑しくないのです。そんな、リラックスしてまいりますと。ところがなら、こうして、その頃においては、奉仕着をつけて出ますから、奉仕着をつけてからぷかぷかタバコやら吹かされんでしょうが。もう誰言うとなしにもう合楽ではいうならばキチッとするようになって、タバコを吸う人が非常に少なくなりました。もう灰皿が入らんくらいです。昔の椛目時代からの御信者さん方は皆そうです。ね。タバコを飲むとか飲まんでええとかそんなこっちゃないです。湯上りになって団扇でも使っておるとやっぱし楽な姿勢を取ります。紋付袴なっとつけてハクセンでも持ってみなさい、それこそ心がシャンと、きっちとしましょうが。
 ね。もう形からでも入って行くと言うこと。勿論心が芯ですけれども、形の上からでもこう、入っていくということが出来るのです。椛目の時代に私の叔母が隣に今の学長の母親です。それはまあ、大変貧しい生活をしておりましたけれども、ほんな隣に来る、私に対して、私はなら、叔母からいうと甥です。けれども、隣に出てくるでもお参りをするとにゃ必ず羽織りがけで出てきましたね。もうきちっとしたことでした。もう隣じゃけんでというこっちゃなか。皆さんでもそうです。決して、ならその余所行きでどうこうという事じゃないですけれども、私は、身なりは、キチッと、いうなら上下をつけたような心もちになる事のためにも、心掛けなければならない事です。もうその自分の信心が残っておりますから、合楽の皆さんなんかそうでしょうが。ね。ほとんどの方がちゃんと背広をきこんで見えられます。
 それがどうこうという事ではないけれども周囲から見られた例えば、時でもです、合楽の信心は行儀が良いという風に見えるということは合楽教会のごひれいになる事です。金光大神の信者としての、いうならば、私はその、プライドをもてという事ではないのです。ね。やはり、信心の姿勢をね、今日は言うておるわけですけれども、とにかく、上下をつけた気持ちで、ご神前に額ずかなければならない。私はまだ、浴衣がけで神様に御礼を申した事はありません。ちょっと御願いがあるでも必ず、いわばこの奉仕着に着替えます。これは神様の前でもそうですけれども、ね、一般からそれこそ、今の繁雄さんと講師の先生の話じゃないですけれどもあの方はどうした方ですかと、繁雄さんが申しました。私と同じ、例えばドンとこう腰掛けられるような椅子がおいてある。やっぱ後ろにおいてあるとも同じ椅子が置いてある。だから、あれにそれくりかえってこうしておったっちゃいかんばい。普通信者一般の後ろに背もたれのない、そういう、やっぱ姿勢でおるそういう心がけがいるのと、これからはやはり別に洋服という事はいらんけれども、普段着から、ちょっと余所行きくらいの洋服は着らなきゃいけんだろうというて、二人で話したことでしたけれども、ね。何でもない事です。神様に身なりがよいから悪いからというて、見下げたり軽う見たりしてはならないとここでも言うておられますけれども、それでどうこうということじゃないですけれども私は神様に向かう時の姿勢構えというものが、やはり上下をつけた気持ちでというなら本気で上下をつけたようなおかげを態度にも、身なりにもいうなら心の状態を思う。そういう気持ちで神様に向かわせて頂く事によってね、それで神様は見上げたり、見下げたりするような事はないけれども、私の心が今言う、浴衣がけの時の心もちと紋付袴をつけたような気持ちが違うように、気持ちが違うという事を今日は聞いて頂きました。
                                     どうぞ